先日X(この後は全てTwitterと書く)で、零壱ノ間が、リリースした「だから僕は音楽を始めた」というデジタルアルバムが話題となっており、面白かったので思ったことを書こうと思う。
このアルバムは「ヨルシカ」というアーティストが発表している「だから僕は音楽をやめた」、「エルマ」という音楽アルバムを生成AIによって再構築するというコンセプトで制作されている。タイトルからもそのことがよく分かる。これに対して、一部のヨルシカのファンが、「生成AIによる曲生成は作者への冒涜だ」や「ただのパクリだ」といった批判を行っている。しかし、これらの批判は妥当だと言えるのだろうか?かくいうこの私もぼちぼちのヨルシカファンなのでこれについて考えてみる。
結論から述べると、私は零壱ノ間の試みは面白いと感じた。それでいてそのコンセプトを没却しているとも思った。現状では、単にヨルシカを用いた売名行為に過ぎないと批判されるリスクがあるといえる。
前提として私は生成AIの創作物について肯定的である。書くと長いため端的にまとめると、創作物の良し悪しは制作者やその過程においてではなく、ただ作品としてのみ評価されるべきであると考える。 それを5歳児が作ろうが、外国人が作ろうが、ロボットが作ろうが私たちが一目見て、聞いて、良いと感じたものが良い創作物である。少し考えたら分かることだ。当然、ここでいう作品の良し悪しとは商業的に成功するかどうかは含まれていない。また、社会的、法的評価も同様である。(著作権違反になるかどうかは作品の評価自体には関係がない)。
「だからぼくは音楽をはじめた」はヨルシカの別アルバム「盗作」を間接的なモチーフとしている。「盗作」では音楽泥棒が破滅するまでを描いており、その楽曲群は既存の他人の曲や詩をパッチワーク的に縫合し制作されており、盗作を体現している。作中で音楽泥棒は、メロディはバッハの時代にで全て出尽くしていて、オリジナルは存在しないという。私たちが見たもの、食べたもの、感じたもの、聞いたもの、それら全てが自分自身であり盗作である。
このようなコンセプトを踏まえると、零壱ノ間の狙いが分かる。生成AIが出力する仕組みは人間と似ている。インターネットに無数にあるコード進行、ドラムのリズムパターン、ボーカルの息遣い、ギターの音色、ベースのゴーストノートパターン。それらを取り込み、再構築し作品として出力する。この過程が人間の創作と何が違うというのだろう?AIを使えば誰でもできると言うが、誰が彼以前にこのような試みを行ったというのだろうか。このようなコンセプトは一種の批評になりうるし、「ただのパクリだ」という批判は、本作のメタ的な文脈を見落としている。(リスペクトがあればオマージュ、なければパクリだというのは何とナンセンスなことだろう!)
以上が前半の「面白い」と感じたところである。ではメッセージが伝わってこないとはどういうことか。
まず、このようなコンセプトを実現するのであれば盗作元は「だから僕は音楽をやめた」「エルマ」ではなく、「盗作」「創作」であるべきである。そうでないと、生成AIによる再構築というメッセージ性が薄れてしまう。盗作だと銘打つ作品をAIで盗作する、これにこそ価値があるように思えるし面白いと感じてしまうのだ。
また、盗作であるからには元の作品は極力バレてはいけない。残念ながら世の中にはバイアスは少なからず存在するから、「盗作である」と判断された作品は、その後正常に評価されることはほぼない。そうであるならば、可能な限りバレないモノであある方が都合が良い。
両者の決定的な差は、「記号」をなぞっているか、「構造」を盗んでいるかにある。零壱ノ間は「エイミー」「エルマ」といった固有名詞、つまり「記号」を直接的に流用してしている。これでは作品との結合が見えない。対してヨルシカの「昼鳶」の印象的なスラップフレーズはJustin KingのPunk Diffiedを基にしているが、ギターのチューニングが半音下げであるのに対して、原曲はダドガドチューニングである。このように構造を盗用しつつも、中身を微妙に変えることによって盗作のエッセンスを演出している。このあたりのバランス感覚はコンポーザーn-bunaの卓越したセンスであると評価できる。
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さらに、肝心の楽曲自体が全くヨルシカの盗作になっていないというのが、一番面白くないところである。ヨルシカの曲(といってもアルバムによって大きく変わるから一概には言えないのだけれど)では、モチーフが使い回されたり、ギターのペンタトニック・スケールでのリフや言葉の音節の切り方、文学作品のエッセンス等、ヨルシカの作品たらしめる特徴が多数ある。
具体例を挙げてみよう。現在ヨルシカでもっとも再生されている「ただ君に晴れ」では、イントロのギターはペンタとメジャーのみで構成されたシンプルなリフでありながらも情報量が多い。このイントロは一曲を通して3回出てくるため印象的である。2番のBメロでは松尾芭蕉の詩が引用されている。また、サビでは「諦めてる」と「だけ」の間に区切りを入れるという独特な文節の切り方をしている。このような特徴が見られる。
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このように象徴的な特徴があるにも関わらず、これらの要素が全く含まれていない。結局、この作品が「盗作」になっていない点が一番の問題であるように思う。以下は零壱ノ間の「共謀」であるが、そもそも原曲が不明である。(強いて言うなら雲と幽霊?)曲調はダークなシャッフルビート。ピアノ基調のイントロであり、基本的に文章単位で区切ってあるためボーカルのリズム感がやや不安定である。サビに盛り上がりが来る点は近年の流行を踏襲しているが、その後のキメの部分でアカペラになる展開はAI特有のものであるように感じる。結局、ヨルシカとの類似点が少なすぎて、この作品が盗作であるかどうかすら分からない。これではヨルシカの名前を借りて、AIオリジナル曲を発表しただけになってしまうだろう。
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以上を総括すると、零壱ノ間の「Aiによる盗作は悪いのか」という作品コンセプト自体はヨルシカの盗作に対するアンサーとしての側面があり、また社会に対する問題提起として非常にクリティカルであるといえる。しかし、盗作の元、盗作に対するスタンス、楽曲の完成度が致命的に不足している。それによって、コンセプトと不和を起こし作品の完成度を落としているといえるだろう。
これを踏まえて私も文章を考え、生成AIに読み込ませコンセプト文を作成してみた。
俺は泥棒だ。機械を使って盗んでいる。
街に流れる音楽は、すべてが誰かの模倣だ。 誰もその事実に気づかないまま、新しいフリをしている。 だから俺は、機械を使って効率よくやる。
人間が作るものと、俺が機械で出すもの。 そこに一体、何の差があるというのか。
俺はただ、自覚のある泥棒だ。
なんというか、やはり原作に比べると随分軽薄なものになってしまい作品にすらなっていない。個人的見解では、n-buna の文章は人間の心理状態をメタ的に分析しつつも心情と行動や、思想と感情などの矛盾を描く力が卓越している。このような人間の矛盾によるゆらぎを生成AIで再現するのは難しいということなのだろう。このような人間的ゆらぎを表現できることを夢見つつも、AIも使い方が肝心であると思った。
※生成AIによって制作した楽曲を商用利用する場合には著作権法違反によって処罰される可能性があります。あくまで自己責任でお願いします。